交通の要所で、ここから六本の道が分かれていました。
【上へ戻る】
六部とは全国を巡回し、法華経を奉納する人で、相模の人が元文四年(1739年)に荒島で亡くなったと記されています。
【上へ戻る】
富くじで千貫分当てた人がここに水茶屋を建てたと言われています。今も水くみポンプが残っています。
【上へ戻る】
中海の水がひたひたで素足で渡ることができたので渡りという。「雲陽誌」(1718年)によれば、2間半の板橋があったという。
【上へ戻る】
うさぎ山の下にある石像の観音が納めてあるお堂。元禄17年(1704年)の銘が見られます。
【上へ戻る】
神宮寺の額がかかっているお堂。前庭に立ててある石碑に寛永15年(1638年)の年号が見られます。
【上へ戻る】
昔この場所は石切場で、石が崩れ死者数名を出した。そこでこの地蔵が祭られたという。
【上へ戻る】
明治9年の荒島村の地図に「小字一里塚」の地名が見えます。現在は痕跡も無くなっています。
【上へ戻る】
江戸時代の絵図にも描かれている、岩山そのものが地蔵堂となっています。中のお地蔵さんは、荒島郵便局の隣に移っています。
【上へ戻る】
地蔵尊には、元禄13年(1700年)の銘が見られます。
【上へ戻る】
数体の地蔵尊があり、一体には享保21年(1736年)の年号が刻まれてあります。
【上へ戻る】