亀治(1839〜1895)は江戸時代の終わり頃、現在の荒島町で生まれ、1875(明治8)年に、この地方の気候や土地にあった理想的な稲の品種である「亀治」を生み出しました。「亀治」はいもち病に強くて、もみの一粒は大きくて重く、しかも数が多く倒れにくいという特徴がありました。亀治米はその後遅く実る稲の代表的な品種として、全国で広く栽培されました。
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孫三郎(1696〜1745)は江戸時代中期に中海南部の海岸沿いの新田開発、港や道路の改修、海運業などいろいろと郷土のためにつくしました。なかでも荒島の西部にあった日白池を、「かんな流し」という砂鉄を採る方法で土砂を流し、16年間かけて埋め立て、3町7反(3万7千平方メートル)の新田(卜蔵新田)をつくりました。
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景雲(1874〜1943)は宮大工の家業を習い、米原雲海に進められ21歳で上京し、高村光雲の門に入りました。明治40年、岡倉天心の指導を受け、米原雲海らと日本彫刻会を組織し、以後、毎年彫刻展を開き活躍、木彫の鬼才と言われました。荒島八幡宮、東養寺、円光寺において景雲の作品を見ることができます。
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